Friday, June 18, 2010

女性がスカートをはく理由 -3

女性がスカートを、なぜはくのか分からないままに、上のようなタイトルで書いていますが、ともかく続けます。

古代ローマの男性は、チュニックなどは着用しました。殊に労働者や兵士は短いチュニックでしたが、その下に脚を覆うものは履きませんでした。

ゲルマン民族の大移動は世界史に出てきたように覚えてますが。西洋の男性のズボン姿は、どうやらゲルマンその他の、紀元後にヨーロッパに移住してきた民族によってもたらされたものらしいです。彼らがなぜ、その当時はタイツなどもありましたが、今で言うズボンを着用したのか、本当の理由は分かりませんが、ひとつは乗馬や戦い、旅などをするのに便利だったからかもしれません。

タイツのようなものはゲルマン民族の女性も保温などのためもあり、着ていました。しかしその上に裾の長い服、つまりスカート、を着ていたので、女性が長いスカートをはく、という習慣は地中海周辺地域と共通していたようです。

上の絵はローマ人からかけ離れた文化を持っていた、ヴァイキングとアイリッシュ(ケルト)の王。

Thursday, June 17, 2010

女性がスカートをはく理由 -2


ミノア文明のファッションは特有だと書きました、しかし西洋のファッションの流れを既に生み出していることは確かです。

古代ギリシャからローマにかけての服は、単純に言ってしまえば四角い布を巻きつけるだけでしたが、ここでは労働者や肉体を使う者は、これも単純に分けると、膝上の短いものを、そうでない者は足首までの長い布を着用していました。

右は女神アルテミスの像ですが、狩りをする活動的な姿には、短いチュニックを着せてます。同じくギリシャ神話のアマゾンの女性の絵で、ズボンをはかせたものもあります。つまり、活動的な人にはたとえ女性でも男性のような格好をさせたわけです。

女性は通常家族と家を守り、外で働くことはありませんでした。よって、裾の長い服でも不都合はなかった。これは女性はスカートをはくようになった一因かもしれません。

もう一つ、古代ローマの娼婦は、体の線が透けるような薄い布の服を着て街を歩いたり、売春宿の入り口あたりで全裸で立って客を誘い込んだりしたという記録があります。薄物を着ていると、裸同然なので、選ぶ側の男性がじっくりと体つきの美醜を観察できたとか。
そういう女性と(別に彼女らの服装が基準というわけではないでしょうが)、そうでない女性を区別するためにも、男性が自分の家族の女性に肌を見せない格好をさせたかもしれません。

ついでに言いますと、当時の男性による、娼婦の見定め方についての記述が残ってます。顔の良し悪し、全体のプロポーションの美しさ、脚の美しさ、ウエストの細さなどについて語っていますので、目の付けどころは古代から現代まで、全く変わってないんですね(笑)

Wednesday, June 16, 2010

女性がスカートをはく理由

ギリシャのサントリーニ島に行ったのは、もう3年近く前のことです。夕日が有名とか、断崖の上の街並みが美しいとか色々言われますが、私が一番楽しみにしていたのは遺跡発掘現場でした。一般公開されていて、大変おもしろかったと、以前行ったことのある人から聞いていましたので。

バスでのんびり終点まで揺られて、そのバス停から歩いてすぐです・・が、 閉まっていました。今も観光客には閉鎖されてます。2005年に屋根が落ちて見学者が死亡する事故があって以来です。今年いっぱいは閉鎖されたままだとか。

サントリーニのアクロティリ遺跡のものは、クレタ島のものと混同されがちです。クレタ島の近所の島ですし、ミノア文明は貿易で発展していきましたから、類似していて当然でしょう。

さて本題の、女性がスカートをはく理由ですが、はっきり言って分かりません。

女性がスカート、男性がズボンという区別が昔からあるのは西洋のみでしょうか。 ここにある絵は、アクロティリで発掘されたフレスコ画の一部。男女とも衣服に、クレタ島のフレスコ「百合の王子」や蛇の女神像との共通点が見られます。


これらを見る限り青銅器時代(2700~1500BC)には、既に現代に通用する、男女差のあるスタイルが存在したと言えるのですが、しかし、ミノア文明は特殊でして、この後ギリシャ、ローマ文明を経てヨーロッパ中世も過ぎて、ルネサンスにかかる頃まで待たないと、男性はともかく、女性の、左の絵のようにはっきりとウエストを絞り、スカートを膨らませたスタイルは現れません。

Wednesday, May 26, 2010

ミニ ロマンチックチュチュ その後

以前サンプルをひとつ紹介しましたが、その後さらに試作を重ね、ようやく仕上がりました。小学校2年から5年生くらいまで、全部で33着のオーダーでした。

Thursday, March 18, 2010

Thomas Gainsborough その6

ゲインズバラは1744年には自分のアトリエ(考えてみるとフランス語が多いようです・・)を持ってました。1746年頃には東ロンドンのHatton Gardenという通りの貸家で、住まい兼アトリエで仕事をしていたようです。この通りは中世から宝石、貴金属、装身具の取引場所として知られてたようで、今も宝石店が道の両側にぎっしり並んでますから、ゲインズバラが住んでいた頃も似たようなものだったろうと想像しています。 

イギリスの良い所は、物事があまり変わらないことで、ゲインズバラが住んでいたHatton Garden 67番地は今もあり、一階には宝石店が入ってます。建物は後のものだと思いますが。

彼はここにすんでいた時期である1776年7月にマーガレット・バア(バー? Margaret Burr)と言う女性と結婚しました。 場所はメイフェア・チャペルと言う、極秘にする必要のあるような結婚の式を司るので悪名の高かった教会です。式を挙げたときマーガレットは既に妊娠していたようです。でも極秘結婚が必要だったのは、マーガレットがある公爵(3rd Duke of Beaufort 1707 – 1745)の私生児であったからとも言われます。

彼と彼の妻は、1748年ゲインズバラの長女マーガレットが亡くなると、翌年生まれ故郷サフォークのサドブリーに帰ります。 これはその後も生まれてくるであろう子供をより良い環境で育てたかったのと、ロンドンでの画家としての成功が難しいと見極めたからだと言われます。

 亡くなった娘は、当時の住まい周辺の地元教会 St Andrew Holborn に埋葬されました。
 ごく当たり前の小さな教会だと思ってましたが、デザインは近所のセントポール大聖堂と同じ建築家クリストファー・レンのようです。

Friday, March 12, 2010

Thomas Gainsborough その5

1740年、ゲインズバラはロンドンに出て絵の修行をはじめます。版画家(挿絵画家)は絵描きよりも職業としては安定していましたので、若い時にゲインズバラ同様、金銭的余裕のなかった同時代の画家ウィリアム・ホガースやウィリアム・ブレイクも版画の勉強から絵の世界に入りました。

版画や印刷の勉強はもちろんしましたが、師に付いた版画家ユベール=フランソワ・グラヴロ(Hubert Francois Gravelot)は絵描き、デザイナーとしても名の売れたフランス人でした。この人から様々な事を学び取ります。 グラヴロはイギリスに渡る前はフランソワ・ブーシェの弟子であったこともあり、ロンドンに当時のフランス・ロココのスタイルを伝え、流行させたことで知られてます。

さて日本で素描のことをデッサン(仏 dessin)と呼ぶのは、私はいつも面白いなと思うのですが、それはともかくゲインズバラの10代後半の頃のデッサンがあります。
はっきり言ってそれほど上手くはなく、形の全体をきちんと捉える事が出来てません。 師のグラヴロから教わる他に、一応画学校にも通って勉強しましたが、当時のヨーロッパ大陸に比べると芸術面では遅れをとっていたイギリスです。あまりきちんとした指導は受けなかったようです。それでもこの頃からドレスやコートなどの布の質感の違いには注意を払っており、後のスタイルを彷彿とさせるものがあります。

左は現存する彼の絵の中では一番日付が古いものです(1745年)。ヒル婦人という人の依頼で描いたもののようですが、犬の絵はこの後も何枚も描いており、どれも特徴だけでなく、性格(?)もよく捉えていると言われます。
イギリス人が人間よりも動物との方がコミュニケーションの取り方が上手い(犬や猫に自分の思うことを自由に話しても文句言いませんし 笑)のはご存知の方もいらっしゃると思いますが、ゲインズバラも例外ではありませんでした。
結婚後の事ですが、妻のマーガレットと喧嘩した後の仲直りには、フォックスとトリストラムと名付けて可愛がっていた二匹の犬に仲直りのメッセージを渡してもらったりしたとのことです。

Picture above : Bumper, Bull-Terrier Owned by Mrs. Henry Hill, c.1745

Wednesday, March 10, 2010

Thomas Gainsborough その4

さて、先に家族の事を書きましたが、トーマス・ゲインズバラ自身もエキセントリックだったと言います。

左は1754年の自画像。未完成です。
ここには、彼の社会に認められる存在になりたい自分と、その気持ちを裏切るようなある種の大胆さと、さらにその大胆さの逆の自信のなさが混ざりあっているようです。
実際の性格も、積極的で魅力もあり、機知に富んだ話し手でもあると同時に、非常に控えめで時には自信のなさが目につくこともあったとか。 一つの事を執念深く研究し続けたりもしました。そして、彼の絵に顕著なのは、女性に対する感情です。

"Deeply schooled by petticoats"
これは彼自身の言葉です。ゲインズバラは女性に対する性的な感情、感覚を絵画という形で表したと言われます。それは女性の肖像画の多さを考えると頷けます。

Sunday, March 7, 2010

Thomas Gainsborough その3

さて、ゲインスバラの従兄弟のジョン・ゲインズバラは事業も上手くいき、豊かな生活をしていましたが、名前は同じ彼の父親ジョン・ゲインズバラは、一族の中のダークホースと言われる半面、むっつりと内にこもりがちな性格で、これは今では事実か分かりませんが、銃を肌身離さず持ち歩いていたとのことです。ちょっとした精神的な歪みがこの一家に見られる様で、ゲインズバラのお兄さん(この人もジョン・ゲインズバラ)は、より風変わりでした。

常に全く実用性のない物の発明などにお金と時間をかけ、妻と子供のいる生活を顧みることがなかったとかで、生活に困っているのは当たり前。まわりにはSchiming Jack (ジャックは、ここでは本名に関係ないあだ名です) というあだ名で呼ばれていました。彼が”発明” した物の中には、一日中鳴きつづけるカッコウ時計や自動ゆりかごなどがあります。彼の精神状態には首を傾げる人は多かったようです。

しかし兄弟が10人もいれば、尊敬に値する人もいて当然で、トーマス・ゲインズバラは兄の一人、メソジスト派の牧師となったハンフリーを特に慕っていました。ハンフリーは快活な性格で、やはりものの発明に興味を持ってましたが、兄のジョンと違い、新しいタイプの耕作機と水車を発明して生産業の団体から賞金をもらってますし、スティームエンジンの改良もジェームズ・ワットに先駆けて行ってます。

彼の二人の姉もハンフリー同様尊敬に値する女性で、ゲインズバラは生涯を通じて姉たちとは親しく付き合いを続けます。

Friday, March 5, 2010

Thomas Gainsborough その2

当時のイギリスの商人など、中流クラスの人々の間では既存の宗教観を否定的に見る傾向があり、ゲインズバラ家も例外ではなくメソジスト派でした。より豊かな家庭に見られるような豪華で贅沢な生活を否定し、どちらかというと質素堅実、自然な心情や感情を大切にする宗派です。そういった宗教と家庭環境の影響だとも言われますが、ゲインズバラは風景画を描くのが好きな子供でした。
この彼が長じて肖像画家として名を馳せたのはちょっと皮肉にもみえますが、メソジスト教徒らしく、じっと耐えていたのかもしれません。

1730年代初めにゲインズバラのお父さんは事業に失敗して財産を失い、郵便局長なります。この転落を期にゲインズバラは、将来は版画家として独り立ちする目的で、ロンドンに出て版画家の元に弟子入りします。イギリスは本など出版物の量が多く、挿絵画家として生活をしていくことが可能だったのです。江戸の日本ならさしずめ版木彫りの親方に弟子入りするようなものでしょう。

ゲインズバラが生まれ育った家は、大家族にふさわしくたっぷりと広さのあるものです。現在は博物館として一般に公開されてますが、この家に彼の家族が、経済難に見舞われても住みつづけられたのは、彼の親戚で有力者でもあったジョン・ゲインズバラの支援のお陰だといわれます。

上はその親戚の肖像で、ドイツ人肖像画家、ジョン・テオドール・ハインスの作。1731年の作です。これはゲインズバラが初めて目にした肖像画で、影響を与えたのではないかといわれており、先に紹介した彼の自画像は、この肖像画の謹厳で堅苦しいスタイルを真似ているようです。
John Theodor Heins (1697-1756) : Portrait of John Gainsborough, c.1731

Thomas Gainsborough その1

ロンドンのある美術系大学で先生の一人に好きな画家は?と聞いたことがあります。帰ってきた答えがトーマス・ゲインズバラ。さまざまな苦労をしたことに共感を覚え、ターナーに先駆けて19世紀の印象派につながる表現を始めた人として、もっと評価されてもいいと語ってくれました。

そう言われて改めて見てみると、彼の絵はあちこちの美術館にあり、とても目に付きます。私が行く機会のあるロンドンのテート・ギャラリー、NYメトロポリタン、フリック・コレクション等は、彼の絵を見たくてふらりと立ち寄る事もあります。彼が一時期住んでいたバースにもおもしろい作品がありました。

サフォークの小さいながらも栄えていた商業の地の、毛織物業に携わる家庭に生まれました。10人兄弟の末っ子。父親と兄弟がこの地の産業でもあった織物業で生計を立てていた影響か、姉のメアリーとサラはやはり布を扱う職業である婦人用帽子職人(男性用とは別の職業)になります。母方の叔父は聖職者と地元グラマースクールの先生を兼ねており、ゲインズバラ自身この叔父さんに学校で教わりました。


上は彼が12歳の頃の作品で、自画像と言われてます。
Thomas Gainsborough, Self-Portrait c.1739

Tuesday, February 16, 2010

ミニ ロマンチックチュチュ

とあるバレエ教室の為に、衣装を製作中です。試作を重ねた結果がこちら。


子供用ですが、


注文どおりに芯地にしっかりした生地を使ったら、


自分で立ってしまいました。


これに、肩にゴムを付ければ完成です。

Friday, February 5, 2010

誰が、何時、何故パウダーを使い始めたのか

18世紀、髪やカツラにパウダーを使い、白っぽく見せたことは今までにも書きましたが、今回はそのきっかけに付いてです。

使われ始めたのは1730年代でしょうか。ルイ14世の死後、男性のカツラが簡略化されてゆき、より軽く着け易いものへと変わっていき、地毛とカツラを両方使うスタイルがこの頃に流行り始めました。

この絵の男性の前や横の髪は地毛で、後ろは見えませんが、よくある結んだスタイルのカツラになってるはずです。日本髪のカツラでも顔のまわりは地毛を使う半カツラがありますが、それと同じ感じとでも言いますか。
これですと生え際が不自然でなく、確かに以前の長髪のカツラように重たくもなく着けやすかったのですが、カツラの髪の色と自分の髪の色が一致しないのが問題でして、それをごまかすためにパウダーが使われ始めました。ですので初めに使い始めたのは男性です。

始めた人は分かりませんが、当時のヘアスタイリストの誰かが考えついたのかもしれません。カツラと地毛の境目を目立たなくする方法として、有名なスタイリストと宮廷の誰かとが結託して始めれば間違いなく流行したはずです。

女性も同時期にヘアピースを使い、よりボリュームのあるスタイルを作るようになっていきましたから、色の違いをごまかすのには有効だったはずです。19世紀に入ると、パウダーは廃れますが、女性のヘアピースは使われ続けます。その、時には違い過ぎる髪の色についての当時の記述もありますので、パウダーで白っぽくしてしまうのはとても良い方法だったと言えます。

もう一つ、この時代はおしろいが流行りました。女性はもちろんのこと、男性も使い、日焼けしない貴族的な肌の色を作り出すのが流行り、それに伴い、白い肌に合うブロンドやプラチナブロンドの髪がもてはやされたのです。それが白い粉を好んだ理由でしょう。

さらに、当時は髪を洗う習慣が無く、匂いもかなりのものでした。そこで髪粉にラベンダーやオレンジ等の香料を加えたり、パステルカラーにしたり、様々な工夫もされ始め、一時代を作り上げたわけです