Monday, August 24, 2009

なぜ男性は髪が短いのが当たり前なのか?

そもそも何故このブログを始めたかというと、とあるQ&Aサイトでよく見られる質問に答え始めたことがキッカケです。ここにもひとつ。

男性も髪を伸ばす文化はあちこちにありました。中国の弁髪とかネイティブアメリカンとか中近東、南アジアあたりとか。日本もそうでした。古代には男性も長髪が当たり前でした。
新約聖書の頃になると、男性の長髪は恥ずかしいことだという記述があります。でも女性の長い髪は頭をおおうものとして許されています。イスラム教でも男性の長髪を許す宗派もあり、その逆もあり。でも女性は長い髪を保つのが常識。アフリカの一部でも女性の豊かな長い髪は、健康で丈夫な体の現れと見られるとか。
女性の長髪は豊かさ、豊穣の現れという考え方は、何となく説得力あります。子供を産み育てることが仕事でしたから。

キリスト教自体に髪の長さに対する決まりはなく、新約聖書の時代にあらわれる西洋の男性の短髪は、ローマ人が推奨したものです。このローマ人の習慣は、帝国の拡大によって取り入れられた、どこかの異端の文化です。それより以前の古代ギリシャあたりだと、奴隷は髪もヒゲも剃っており、逆に一般男性にとっての長髪は富や権力の象徴であり、人前で長い髪をくしけずるのも当たり前だったりしました。
その後のヨーロッパでも(多分ルネッサンスあたりから)男性の長髪は普通で、後にはカツラを使うほど認められてました。このカツラ(長髪)はやはり富や権力の象徴でしたから、フランス革命後に廃止されます。

前置きが長くなりましたが、イギリス市民戦争でクロムウェル派は、当時の宮廷の習慣である長髪(カツラを含む)に対抗する意味で、髪を短くしていました。この短髪派(ピューリタン)の人たちが勝利を納め、アメリカ大陸にも渡り、男性の短い髪を広めていったと考えられています。男性の短い髪は各国の植民地にも広まったと考えると、現在の男性の短髪は、煎じ詰めれば西洋の影響です。
歴史的には革命派の髪型だったらしいのですが、いまでは男性の長髪の方が反社会的と見られてますよね(笑)

Picture above : Self Portrait (1500) by Albrecht Dürer

Friday, August 7, 2009

カツラ(periwig)のその後

カツラに特別な思い入れがあるわけではないのですが、再度言及してみたいと思います。

以前述べましたが、カツラはフランスの王政廃絶とともに実質的に無くなりました。カツラは大変な贅沢品で、貴族の象徴のようなものでしたので、フランス貴族が着用したがらなくなり、加えて廃止論が高まり、国によっては(イギリスなど)税金をかけたりしたからです。しかしまったく無くなってしまったわけではなく、その後19世紀から続く伝統として、法廷などでは今でも使われてます。1823年まではイギリスとアイルランドの国教会主教も着用していました。法廷や教会はカツラ税の心配はいらなかったんでしょうね(笑)

フランス革命まではカツラは、貴族の身だしなみであると共に、特権階級の社会的な身分の象徴でもありました。それが法廷という特殊な場で、法を司るものの地位を示す道具として生き残って行ったのです。カツラに黒い法服の裁判官その他が前にデンと構えていると、向かい合う人々の気分はやはり改まるものではないでしょうか。とは言うものの、カツラかぶってふんぞり返ってもったいぶった姿は面白おかしくもあり、ほぼ必然的に、「お偉方」を意味する茶化した言葉(bigwig)もあります。

今でも法廷でカツラを使う国はUK、その連邦国、それに返還後の香港でも使ってます。オーストラリアの一部、ニュージーランドは廃止しましたが、現在の裁判官のカツラは18世紀中頃のスタイルを模したもので、その頃の「カツラは正装の一部」の意識は未だに続いているわけですね。

picture above portrait of Colbert villacerf, 1685

Tuesday, August 4, 2009

ミュール

公衆の面前で初めて、恥ずかしげもなくミュールを履いた足を出した女性はドロン伯爵夫人、と言われていますが、これは年代もはっきりしており、1694年のことです。

ミュール(スリッパ)は、これもまた古代から各地にありましたが、古代ローマで一部の地位の高い男性のみが着用を許されていた、赤いサンダルタイプの靴mulleus calceusのmulleusが、現在のミュール(mule)の語源のようです。代々のローマ法王もこのタイプの靴を履きました。つまり、男性が当たり前に履いていたものです。

ただし、このmulleusは靴ではなくその色を示す言葉です(calceusが靴)。この言葉を辿ってみると(私には)面白かったので言及しますと、 ラテン語のmulleusは、地中海のred mulletという魚のmulletのこと。これは日本のカサゴの様な、それよりも少し青味の強い綺麗な赤い魚です(さっぱりした白身で美味しい)。ローマ人の靴mulleus calceusは、その赤い色と艶が、この魚と似ていたことから名づけられたもののようです。

同時期のローマに、もっと今で言うミュールに近いスリッパも普通にあり、こちらの名前はsoccus。これは男性用はともかく、女性用は柔らかい革製の家の中に限られたスリッパで、人前で履くものではありませんでした。このようなスリッパを履いて堂々と道を歩けたのは、高級娼婦だけ。と言う以前に、きちんとした女性は無闇に外出することはありませんでしたが、娼婦は何かと自由に振る舞えたので、室内履きのスリッパでも平気で出歩いたのでしょうか。(ちなみに当時は左右がありました)
いずれにせよこのスリッパは、その後何世紀ものあいだ室内履きとして、男性にも女性にも使われ続けます。そしてこれにミュールという言葉が使われ始めたのは16世紀中頃です。

17世紀後半に、詳しいことはここでは書きませんが、貴族階級の女性の間でカジュアルな服装が流行ります。これは、それまでの室内/寝室着がちょっとした外出着に変貌をとげたものでしたが、「トータルコーディネート」の意識からでしょうか、服に伴って靴も寝室から街へ繰り出して行ったのです。もちろん上質の革や絹製だったり、レースやリボンで飾り立てられたものでした。

さて、ドロン伯爵婦人は若い頃は、大変な貞操観念の希薄さで知られた女性だったようですが、1694年というと既に60歳くらいでした。
教会へ行くと床にひざまずいたりします。この時に高貴な女性はクッションを使うことが許されていました。ドロン婦人は教会で、つまり大衆の集まりの中でわざと横座りして、グリーンのストッキングと赤いヒールのミュールが見えるようにしたんだとか。彼女が見せたかったのが最新流行の靴なのか、ストッキングなのか、それとも彼女自身が注目を浴びたかったのか、その辺りは分かりませんが、それまでの「室内の、人前にでない姿の時の履物」のイメージは、そうそう変わるものではなかったでしょうし、よほどショッキングだったのでしょう。この場面を描いた当時の絵があるほどです。

18世紀になると絵画でもよく見られるように、ミュールは当たり前になりますが、この頃のヨーロッパ貴族の生活はかなり乱れたものでもありました。つま先は隠されているが、かかとは出ている。簡単に脱げる。考えてみれば非常に思わせぶりな靴です。ファッションと社会の関連性も、この頃になると現れてきます。

ミュールというと今は女性のものですが、昔は室内履きのスリッパの事で、例えば17世紀後半のある貴族の男性の日課が『朝起きてミュールに足を突っ込む』でした。ミュールというと今もセクシーな靴のイメージが強いのは、ローマの昔から綿々と続く、もともとは室内履き、つまりむやみに人に見せないものであった歴史から来ているのだと思われます。

左の女性(絵の下の記述は Madame la Comtesse d'Olonne, ドロン伯爵夫人)の絵は左足のかかととミュールがポイント。でもそれだけでなく、最新のファッションに身を包んでいます。

pictures from top
The Swing
(Les hasards heureux de l'escarpolette) by Jean-Honoré Fragonard
17th century engraving, Madame la Comtesse d'Olonne

Saturday, August 1, 2009

ハイヒール その2

17世紀まで、靴の作りやスタイルに男女の区別は殆どなく、女性の足は常にドレスの下にかくされていた事もあり、女性の靴のおしゃれ度は 確実に男性以下でした。が、男性が赤いヒール、バラの花形の飾り(ロゼッタ)、金銀にダイヤその他の宝石をあしらったバックルやリボン等を楽しんでいれば、女性だっ て当然華やかなものが欲しくなります・・よね?

殊に前回述べましたレスタージェの、靴屋としての伝説的な成功の後には、パリの街に高級靴屋が増えます。まずは男性専門の靴屋が何軒もでき、その後、女性の靴屋も少しずつですが増えて行き、この時代までに、今ある靴のすべてのスタイルが作られたと言います。

写真は1740~50年頃のイギリス製ですが、Louis French, Louis Heel, 日本ではフレンチヒールと呼ばれるタイプのヒールのシェイプ。Louisはルイ14世のルイ。上からの深いカーブが中程から下へ向かって裾広がりになる、弧を描くかたちが特徴です。今でも普通にありますよね、これ。細身で軽くて、非常に女性らしいシルエットで、この時代までなかったのが不思議なくらいですが、靴作りの技術の向上も必要だったのでしょう。
シンデレラの物語がこの時代に改めておとぎ話として取り上げられたのも、偶然ではないかもしれません。16世紀までの女性の靴に関しては別に書く必要がありそうですけど、これ以前の時代設定では、シンデレラの物語はなんともつまらないものになったと思えます。

再び靴屋レスタージェについてもう少しだけ。
彼が国王ルイ14世に贈呈した伝説的なブーツがあります。当時の様々な記録によると、『縫い目が一切無く、しかし足にぴったりフィット』したんだとか。その奇跡的な(と言われた)靴がどうやって作られたかについて、レスタージェが秘密を守ったために、人々は様々な考えられないような憶測をしますが、その1つに、吹きガラスの工芸技術を真似て、一気に作り上げたのではないかと考えた人までいます。

シャルル・ペロー原作のシンデレラはガラスの靴は履いていなかったと言います。でもこの物語が出版されたのは1697年。女性が足もとのおしゃれに目覚めた、まさにその時でした。

the photo above from Fashion : A History from the 18th to the 20th Century