Thursday, December 31, 2009

誰が流行を作ったか

1520年代からおよそ50年間、男性の間に短髪が流行ります。
それはこんな髪型から・・・・・・
こんな髪型への変化でした。

 
 ファッションデザイナー等がいて次々と違うものを市場に送り出し、消費を促す事などなかったこの時代、この様な急激な変化は何か理由が無い限り起こりません。
理由は非常に単純です。
フランス国王、フランソワ一世が乗馬中の事故で頭を怪我し、髪を切らねばならならず、宮廷の廷臣は国王に気まずい思いをさせないため、皆同様に髪を切り、その結果短髪が”流行り”始めたのです。しかし当時は富裕階級の男性にとって、手入れの行き届いた長髪は男性らしさや富や健康の象徴であり、これを切る事には非常に抵抗があったようで、代わりに髭を生やし始めます。
 ファッションの変化は常にゆっくりと起こりました。かくして男性の短髪が50年ほども流行りつづけたのです。




Tuesday, September 29, 2009

命がけの美肌ケア


~~~~~~~~~~~~~レシピ~~~~~~~~~~~~~
きれいな、柔らかい鉛の塊を薄く引き延ばし、巻いてロール状にする。
それを鍋に入れる。その時に、鉛が底に着かないように棒などを置いた上に置く。
鉛に”変化をもたらすために”酢を注ぎ入れる。
鍋を鉛の板でフタをし、新しい馬の糞で作った床(とこ)の上に置いて3週間”消化させる”。
3週間後、フタにした板と鍋の中の鉛の両方を、板の上できれいに押し延べて、薄片がすべて出尽くすまでラケットで叩く。
次に、この薄片を臼で砕いて粉末状にする。
水を加えて塊にしたら、天日で乾かす。
出来上がったものに、染料や香料を混ぜて使う。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
以上が、1661年にイギリスである男性が実践した、鉛白の作り方。
そして以下が、この男性が体験した、鉛白作りの際に起こりうること。
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お腹のねじれ、便秘、息切れ、めまい、眉間のひどい頭痛、失明
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
すべて鉛中毒の症状です。

出来上がった鉛白は、赤い色を混ぜて口紅や頬紅を作りました。染料としては天然の動植物性の染料のほか、バーミリオンも混ぜてつかわれましたが、これは硫化水銀。
ベネチア製の鉛白が”良質”で人気があり、おしろいの原料としては雪花石膏が人気でして、こちらはフランス製。

鉛白は昔は日本でもおしろいとして使われていましたが、お金にゆとりのある女性はこれらを毎日顔に塗っていたわけです。しかも水銀で顔を洗うこともありました。にきび、吹き出物、普通の肌荒れはもちろん、天然痘を患った女性は顔に跡が残ったので、それを隠すためにも必死だったのでしょうけど、そんなことを続ければ、美人薄命そのままでしたでしょう。

なお当時の美人とは、血管が浮き出るほど色が白く、小さな薔薇色の唇、細くまっすぐの鼻、大きな眼、細いアーチ型の眉、それに広い額の持ち主で、おしろいで白くした肌に血管を描き、口紅を塗り、眉毛も額の生え際もムダ毛を抜いてかたちを整えるのが流行しました。

picture above : from a portrait of Elizabeth I

Monday, August 24, 2009

なぜ男性は髪が短いのが当たり前なのか?

そもそも何故このブログを始めたかというと、とあるQ&Aサイトでよく見られる質問に答え始めたことがキッカケです。ここにもひとつ。

男性も髪を伸ばす文化はあちこちにありました。中国の弁髪とかネイティブアメリカンとか中近東、南アジアあたりとか。日本もそうでした。古代には男性も長髪が当たり前でした。
新約聖書の頃になると、男性の長髪は恥ずかしいことだという記述があります。でも女性の長い髪は頭をおおうものとして許されています。イスラム教でも男性の長髪を許す宗派もあり、その逆もあり。でも女性は長い髪を保つのが常識。アフリカの一部でも女性の豊かな長い髪は、健康で丈夫な体の現れと見られるとか。
女性の長髪は豊かさ、豊穣の現れという考え方は、何となく説得力あります。子供を産み育てることが仕事でしたから。

キリスト教自体に髪の長さに対する決まりはなく、新約聖書の時代にあらわれる西洋の男性の短髪は、ローマ人が推奨したものです。このローマ人の習慣は、帝国の拡大によって取り入れられた、どこかの異端の文化です。それより以前の古代ギリシャあたりだと、奴隷は髪もヒゲも剃っており、逆に一般男性にとっての長髪は富や権力の象徴であり、人前で長い髪をくしけずるのも当たり前だったりしました。
その後のヨーロッパでも(多分ルネッサンスあたりから)男性の長髪は普通で、後にはカツラを使うほど認められてました。このカツラ(長髪)はやはり富や権力の象徴でしたから、フランス革命後に廃止されます。

前置きが長くなりましたが、イギリス市民戦争でクロムウェル派は、当時の宮廷の習慣である長髪(カツラを含む)に対抗する意味で、髪を短くしていました。この短髪派(ピューリタン)の人たちが勝利を納め、アメリカ大陸にも渡り、男性の短い髪を広めていったと考えられています。男性の短い髪は各国の植民地にも広まったと考えると、現在の男性の短髪は、煎じ詰めれば西洋の影響です。
歴史的には革命派の髪型だったらしいのですが、いまでは男性の長髪の方が反社会的と見られてますよね(笑)

Picture above : Self Portrait (1500) by Albrecht Dürer

Friday, August 7, 2009

カツラ(periwig)のその後

カツラに特別な思い入れがあるわけではないのですが、再度言及してみたいと思います。

以前述べましたが、カツラはフランスの王政廃絶とともに実質的に無くなりました。カツラは大変な贅沢品で、貴族の象徴のようなものでしたので、フランス貴族が着用したがらなくなり、加えて廃止論が高まり、国によっては(イギリスなど)税金をかけたりしたからです。しかしまったく無くなってしまったわけではなく、その後19世紀から続く伝統として、法廷などでは今でも使われてます。1823年まではイギリスとアイルランドの国教会主教も着用していました。法廷や教会はカツラ税の心配はいらなかったんでしょうね(笑)

フランス革命まではカツラは、貴族の身だしなみであると共に、特権階級の社会的な身分の象徴でもありました。それが法廷という特殊な場で、法を司るものの地位を示す道具として生き残って行ったのです。カツラに黒い法服の裁判官その他が前にデンと構えていると、向かい合う人々の気分はやはり改まるものではないでしょうか。とは言うものの、カツラかぶってふんぞり返ってもったいぶった姿は面白おかしくもあり、ほぼ必然的に、「お偉方」を意味する茶化した言葉(bigwig)もあります。

今でも法廷でカツラを使う国はUK、その連邦国、それに返還後の香港でも使ってます。オーストラリアの一部、ニュージーランドは廃止しましたが、現在の裁判官のカツラは18世紀中頃のスタイルを模したもので、その頃の「カツラは正装の一部」の意識は未だに続いているわけですね。

picture above portrait of Colbert villacerf, 1685

Tuesday, August 4, 2009

ミュール

公衆の面前で初めて、恥ずかしげもなくミュールを履いた足を出した女性はドロン伯爵夫人、と言われていますが、これは年代もはっきりしており、1694年のことです。

ミュール(スリッパ)は、これもまた古代から各地にありましたが、古代ローマで一部の地位の高い男性のみが着用を許されていた、赤いサンダルタイプの靴mulleus calceusのmulleusが、現在のミュール(mule)の語源のようです。代々のローマ法王もこのタイプの靴を履きました。つまり、男性が当たり前に履いていたものです。

ただし、このmulleusは靴ではなくその色を示す言葉です(calceusが靴)。この言葉を辿ってみると(私には)面白かったので言及しますと、 ラテン語のmulleusは、地中海のred mulletという魚のmulletのこと。これは日本のカサゴの様な、それよりも少し青味の強い綺麗な赤い魚です(さっぱりした白身で美味しい)。ローマ人の靴mulleus calceusは、その赤い色と艶が、この魚と似ていたことから名づけられたもののようです。

同時期のローマに、もっと今で言うミュールに近いスリッパも普通にあり、こちらの名前はsoccus。これは男性用はともかく、女性用は柔らかい革製の家の中に限られたスリッパで、人前で履くものではありませんでした。このようなスリッパを履いて堂々と道を歩けたのは、高級娼婦だけ。と言う以前に、きちんとした女性は無闇に外出することはありませんでしたが、娼婦は何かと自由に振る舞えたので、室内履きのスリッパでも平気で出歩いたのでしょうか。(ちなみに当時は左右がありました)
いずれにせよこのスリッパは、その後何世紀ものあいだ室内履きとして、男性にも女性にも使われ続けます。そしてこれにミュールという言葉が使われ始めたのは16世紀中頃です。

17世紀後半に、詳しいことはここでは書きませんが、貴族階級の女性の間でカジュアルな服装が流行ります。これは、それまでの室内/寝室着がちょっとした外出着に変貌をとげたものでしたが、「トータルコーディネート」の意識からでしょうか、服に伴って靴も寝室から街へ繰り出して行ったのです。もちろん上質の革や絹製だったり、レースやリボンで飾り立てられたものでした。

さて、ドロン伯爵婦人は若い頃は、大変な貞操観念の希薄さで知られた女性だったようですが、1694年というと既に60歳くらいでした。
教会へ行くと床にひざまずいたりします。この時に高貴な女性はクッションを使うことが許されていました。ドロン婦人は教会で、つまり大衆の集まりの中でわざと横座りして、グリーンのストッキングと赤いヒールのミュールが見えるようにしたんだとか。彼女が見せたかったのが最新流行の靴なのか、ストッキングなのか、それとも彼女自身が注目を浴びたかったのか、その辺りは分かりませんが、それまでの「室内の、人前にでない姿の時の履物」のイメージは、そうそう変わるものではなかったでしょうし、よほどショッキングだったのでしょう。この場面を描いた当時の絵があるほどです。

18世紀になると絵画でもよく見られるように、ミュールは当たり前になりますが、この頃のヨーロッパ貴族の生活はかなり乱れたものでもありました。つま先は隠されているが、かかとは出ている。簡単に脱げる。考えてみれば非常に思わせぶりな靴です。ファッションと社会の関連性も、この頃になると現れてきます。

ミュールというと今は女性のものですが、昔は室内履きのスリッパの事で、例えば17世紀後半のある貴族の男性の日課が『朝起きてミュールに足を突っ込む』でした。ミュールというと今もセクシーな靴のイメージが強いのは、ローマの昔から綿々と続く、もともとは室内履き、つまりむやみに人に見せないものであった歴史から来ているのだと思われます。

左の女性(絵の下の記述は Madame la Comtesse d'Olonne, ドロン伯爵夫人)の絵は左足のかかととミュールがポイント。でもそれだけでなく、最新のファッションに身を包んでいます。

pictures from top
The Swing
(Les hasards heureux de l'escarpolette) by Jean-Honoré Fragonard
17th century engraving, Madame la Comtesse d'Olonne

Saturday, August 1, 2009

ハイヒール その2

17世紀まで、靴の作りやスタイルに男女の区別は殆どなく、女性の足は常にドレスの下にかくされていた事もあり、女性の靴のおしゃれ度は 確実に男性以下でした。が、男性が赤いヒール、バラの花形の飾り(ロゼッタ)、金銀にダイヤその他の宝石をあしらったバックルやリボン等を楽しんでいれば、女性だっ て当然華やかなものが欲しくなります・・よね?

殊に前回述べましたレスタージェの、靴屋としての伝説的な成功の後には、パリの街に高級靴屋が増えます。まずは男性専門の靴屋が何軒もでき、その後、女性の靴屋も少しずつですが増えて行き、この時代までに、今ある靴のすべてのスタイルが作られたと言います。

写真は1740~50年頃のイギリス製ですが、Louis French, Louis Heel, 日本ではフレンチヒールと呼ばれるタイプのヒールのシェイプ。Louisはルイ14世のルイ。上からの深いカーブが中程から下へ向かって裾広がりになる、弧を描くかたちが特徴です。今でも普通にありますよね、これ。細身で軽くて、非常に女性らしいシルエットで、この時代までなかったのが不思議なくらいですが、靴作りの技術の向上も必要だったのでしょう。
シンデレラの物語がこの時代に改めておとぎ話として取り上げられたのも、偶然ではないかもしれません。16世紀までの女性の靴に関しては別に書く必要がありそうですけど、これ以前の時代設定では、シンデレラの物語はなんともつまらないものになったと思えます。

再び靴屋レスタージェについてもう少しだけ。
彼が国王ルイ14世に贈呈した伝説的なブーツがあります。当時の様々な記録によると、『縫い目が一切無く、しかし足にぴったりフィット』したんだとか。その奇跡的な(と言われた)靴がどうやって作られたかについて、レスタージェが秘密を守ったために、人々は様々な考えられないような憶測をしますが、その1つに、吹きガラスの工芸技術を真似て、一気に作り上げたのではないかと考えた人までいます。

シャルル・ペロー原作のシンデレラはガラスの靴は履いていなかったと言います。でもこの物語が出版されたのは1697年。女性が足もとのおしゃれに目覚めた、まさにその時でした。

the photo above from Fashion : A History from the 18th to the 20th Century

Friday, July 31, 2009

ハイヒール

ルイ14世はパリを、ひいてはフランスを、かなり意図的に文化の中心に作り上げようとした人物です。様々な新しい事を始めた人ですが、そのひとつが靴。たかが靴、とは言えません。おしゃれな靴が大好きで、自慢の脚線美も含めてみせびらかす事を目的に靴を選んだようです。靴が初めてファッションアイテムになりました。

17世紀に入り、それまで勢威をふるっていたスペインとイタリアに代わって、フランスとオランダが欧州の政治、文化の中心になります。さらに、ファッションに関しては、それまで普通だった国ごとの傾向や好みがやや薄れ、グローバル化が進んだ時代と言えるでしょうか。

昔は日本もそうでしたが、贅沢禁止令が厳しく、階級によって衣類に対する規制は厳しかった。これは逆に言えば支配階級が富と権力を誇示するのに、”おしゃ れ”は非常に有効な手段だったのです。しかしこれに単なる権力誇示以上の意味合いを持たせ、ファッションをファッションとして独立させるきっかけを作っ たのが、さほど大げさでもなくルイ14世。彼が政治力に長けていただけでなく、派手好きパーティー好き、人々の注目を浴びるのが好きな王様だったために、 影響力も前例を見ないほど大きく、それが(当時の社会構成の変化も重要な一要因ですが)階級や国境を越えるほどだったわけです。

ルイ14世がなぜハイヒールを好んだのか、本当のところは分かりませんが(背が低かったからと言う説と、長身をより高く見せたかったからという説がある(笑)私に言わせると、自慢の脚を長く綺麗に見せるため)、とにかくヒールが大好きでした。

コチニールという赤色(カーマイン)の染料があります。これはエンジムシと呼ばれる、ある特殊なサボテンに寄生する虫から取れる染料で、当時の産地はメキシコのオクサカ地方に限られており、大変に高価な染料でした。それで染めたヒールは以前からあったのですが、ルイ14世はこれを大流行させます。

1659年、公用でボルドー地方へ出かけたルイ14世は、地元の靴職人に一足の靴をプレゼントされます。職人の名はニコラス・レスタージュ。地元では20人ほどの従業員を雇う大きな靴屋を営んでおり、既にその道での地位を確立していました。そのレスタージュが国王のために作ったといわれる靴は、どうやら『ロイヤルブルーに百合の紋章をあしらったパンプスで内側は蜂蜜色のタフタ』らしいのですが、彼を取り巻く逸話は伝説みを帯びすぎており、はっきりしません。が、とにかく王様には大変に気に入ってもらえます。

どのくらい気に入ってもらえたかと言うと、ルイ14世は翌年の自分の結婚式の時にこの靴を履き、当日は迎える花嫁の事と、履いている靴の事で頭がいっぱいだったと言われるほど。ちなみに結婚式の様子を描いた絵画がありますが、靴はロイヤルブルーには見えません。

レスタージュはその後も、他の職人には真似の出来ない靴(ブーツ)をルイ14世の為に作ったりし、ついに貴族の称号まで与えられます。国王から与えられた彼の紋章は、ブーツの上に王冠をあしらったもの。しかしパリの靴屋からは大変妬まれた様で、基本的にはボルドーの地元で過ごしたようです。何しろ彼の功績を讃えて、100ページに及ぶ詩集まで編纂されたほどですから。

一際目立つ赤色をあしらった靴などが流行すれば当然ですが、靴がファッションアイテムとして注目され始め、次第に服とのコーディネートも重要視され始めました。さらに、革よりも布の方が色、質などの種類が多く応用が効くために多用され始めます。

ひとつ靴作りでこの時代に変わったことは、ローマ時代からずっと普通だった、右左の区別がなくなったこと。左右べつべつの木型を作った上にハイ ヒールまで作るのは面倒過ぎるとされてしまったのです。それ程ヒールが重要視されたとも言えますが、その後ヨーロッパで再び左右別々の靴をみるには、19世紀半まで待たなければなりません。

the picture above : the portrait of Louis XIV by Hyacinthe Rigaud

Wednesday, July 22, 2009

ヘアスタイリストことはじめ

日本語で言うところの床屋は古代から存在しました。
17世紀になると、床屋はそれまでどおり外科・歯科医として働く傍ら(中世からそうでした)、カツラ作りも始めます。しかしこれは現在の床屋とほぼ同様、男性による男性のための職業でした。
対する女性はどうしていたかというと、床屋の女房や娘、或いは召使いや侍女に、自宅で髪を結わせていました。

そこに何故、唐突に男性のヘアスタイリストが現れたのかは分かりませんが、1640年頃にシャンパーニュ(本名、詳細不詳)と呼ばれた、欧州初の女性のための男性美容師がパリで絶大な人気を博するようになります。

彼の顧客リストにはフランス王室のお姫様方が名を連ね、ことに1645年にポーランド国王に嫁いだマリー・ルイーズ姫は、シャンパーニュにポーランドまで付いてきてくれるように頼んだほどです。

シャンパーニュのいちばんの功績は、美容師というものを職業として打ち立てた事でしょう。
彼自身は大変わがままで癇癪持ち、気に入らないことがあれば髪を半分やりかけのまま、顧客の家を去ったりするので、人気がある半面、敬遠する人もいました。そういうわがままを嫌ったり、余りに高額なサービスう受けられない女性が多くいたがために、パリの街に初めて、女性美容師による公共の美容院が作られました。顧客はお店をスタイリングの為に尋ねるようになったのです。
これによってスタイルの変化、新しいスタイルを作り上げる事の重要性が生まれました。以後、女性のヘアスタイルはめまぐるしく変化し始めます。

picture above from 20,000 Years of Fashion

Tuesday, July 21, 2009

ウェディングドレス


詳しいことはともかく、作ったドレスは無事に花嫁さんに着てもらえました。

希望により、エンパイアスタイル、総シルクでサテンの上にシフォンを2枚重ねた贅沢なドレスです。
最初デザインの段階では、花嫁さんのお母様は「妊婦さんに見えないかしら?」と心配顔でしたが、意外なほどすっきりしたシルエットには納得いただけたようです。

Thursday, March 12, 2009

最近のこと

ひたすら作業台に向かって、縫い物、編み物の毎日。
ウェディングドレス作ってる最中です。

ちなみに自分のではありません。。